「#半分白目」になってまで『半分、青い。』を見続けた感想。

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『半分、青い。』、完走した。してしまった。してやったよ。
前半はたまに見逃してたんだけど、マンガ家編あたりからは全部観てた。歴史に残るだろうこの酷い朝ドラの感想をまとめておきたい。


以前から朝ドラに対して「○○反省会」というグチ・批判用タグができてたのは知っていたが、今回は「半分白目」タグなるものができた。本作は毎回観る度に「うーん?」となるツッコミどころや不快感が多すぎたので、そのタグを愛用していた(ブログ書く時なんかに再確認しやすいし、見たくない人はミュートできるからね)。

なんでつまらない・不快に思うものを見続けるかといえば、途中で脱落して「つまらなかった」「酷かった」というのは楽なので、最後まで観て「やはりつまらなかった」ときっちり批判したいという意地だ。あと後述するが、毎日観ていても「え、見逃してた?」と思うようなことがあり、きっちり見通した上で総括をしたかった。
何より、毎度観る度に「うっわぁ」と感情を逆なでするドラマというのは、なかなかない。大変貴重である。ホラー作品でもない、まして、よりによって朝ドラなのに、だ。どこまでゾワゾワしながら観られるか、クソ映画好きとしては見逃せなかった。

『半分、青い。』の前に「朝ドラの話」なので、僕の朝ドラ歴と好みを表明しておこう。フリーランスなので、朝起きる目安として朝ドラを使っている。あとフレッシュな女優が活躍するのも眼福である。そういったら、ある人から「君は朝ドラを萌えアニメとして観てるな」と言われ、大変納得した。とはいえ、基本的にストーリー重視派なのは声を大にして言っておきたい。

今まで観た朝ドラとその評価

『あまちゃん』
TLで話題になっているので、途中から観出した。いわずもがなの名作。これ以降、朝ドラを観るようになった。
『ごちそうさん』
前作のプレッシャーを見事打ち破った、大変丁寧で誠実な作品。菅野よう子の音楽も素晴らしい。
『花子とアン』
最初少し観ただけで、(特に他意はないが)なんとなく面倒くさくなって観なくなった。
『マッサン』
非常に好きだったんだけど、なんとなく中盤から観なくなった。シャーロット・ケイト・フォックスが好演。
『まれ』
一通り観た。前半はよかった。パティシエとして世界を目指すとかいうわりには狭い世界。小日向文世の怪演がよかった。最後の能登編がグダグダで不快感が強かった。
『あさが来た』
一通り観た。AKB48が主題歌かよ〜とがっくり来てたが、内容は素晴らしかった。主人公のあさだけでなく、姉の「はつ」の人生も非常にうまいバランスで対比させて見せてくれた。まっすぐなあさが啖呵を切るのが大っ変気持ちいい。
『とと姉ちゃん』
一通り観た。子供時代が一番誠実でよかった(つまり第一週だけ)。悪くはないんだけど、なんか感情のキャッチボールができてない作品。盛り上がるけど、不完全燃焼や不時着するエピソードが多い。
『べっぴんさん』
後半なんとなく観なくなったが、録画してあり、少しずつ消化している。評判は微妙だが、僕は非常に好きな作品。芳根京子がめちゃんこ可愛い。
『ひよっこ』
非常に評判がいい作品。それまでの「女傑が成功していく」路線ではなかったので、個人的には肩すかし感が。悪くはない。
『わろてんか』
やっぱり特に他意はないが、なんか面倒で観なかった。葵わかながかわいかったから、観ればよかったが、吉本新喜劇的なノリがいまいちあわなかったのはある。

この中では『まれ』がワースト、『とと姉ちゃん』もちょっとなーという所。白目民からさえも「これよりはマシ」「いや純愛越えた」と比較される伝説の『純と愛』を観たかったが、まあ『半分、青い。』を観られたのは僥倖といえるだろう。『まれ』の壁さえも、余裕で『半分、青い。』は越えた。あと十年は超える作品がでないで欲しい。

『半分、青い。』の何が悪かったか

で、今回の『半分、青い。』である。
良くも悪くも、視聴者の「感情を動かす」作品ではあったと思う。僕の場合はクソ映画が好きなので、酷い作品でもゲラゲラ笑いながら「なんだこれwww」とか、「これはねーだろwww」とツッコミを入れながら観るのは好きだ。酒のつまみとしては最高だ。ただの駄作なら「つまらん」の一言で終わるが、駄作だがツッコみながら楽しめる作品はある。映画『デビルマン』しかり、本作しかり。しかし恐ろしいことに、『デビルマン』は116分で終わるが、朝ドラは15分×156回続く。そして何より恐ろしいのが、『半分、青い。』は不愉快なのだ。シナリオの整合性がとか、人物設定にブレがとかそういうレベルも越えて、倫理的に不愉快。繰り返すが、『半分、青い。』はホラーやサスペンスではない。朝ドラだ。

主人公に感情移入できない

永野芽郁演じる「楡野鈴愛」にまったく感情移入できない。言い切りでぶっきらぼうなセリフの連発は、(ヒロインとしてというより人として)かわいげがないを通り越してもはや不躾なレベル。幼稚で自己中心的なのに、何故かまわりからはチヤホヤされるという謎の人物である。初対面の男性に対して、いきなりdisる失礼な奴だ。

後半がとくに酷く、離婚後も親に連絡もせず実家へ帰り、親が世界旅行のためにとっておいた貯金を流用して、祖父の味を継いだ五平餅屋を立ち上げる。が、娘にスケートの才能があるとわかると東京でスケートを習わせたいと五平餅屋を捨てて上京(ちなみに娘が憧れたのは浅田真央で、岐阜に近い名古屋が地元だが、作者の娘が神宮のスケート場に通っていたらしく、それで名古屋ではなく東京へ再上京することになる)。なお予算の都合があるとはいえ、実際にスケートをしているシーンは一切出てこない

本作がいわゆる女性の生き方の主眼を置いた「朝ドラ」ではなく、恋愛をテーマにした「恋愛朝ドラ」だとしても、主人公の恋愛が成就するのを応援したくならないのでは、恋愛ドラマとして失敗ではないだろうか。後述するが、律と鈴愛が初めて抱きしめあうシーンでは、大きな批判の声があがったし、ラストの方のキスシーンでも「気持ち悪い」「40手前なのにこれかよ」と、敵対的な意見を多く見かけた(白目民だから当然だが)。

無駄な容姿への言及・デリカシーのなさ

(過去の話とはいえ)このご時世のドラマなのに、鈴愛のマンガ家時代のライバルであるボクテが「僕ってゲイだから」をやたらと繰り返し、白目民の顰蹙を買った。当然ながら、別にゲイならではの見識が語られたわけではない。
嶋田久作を「モアイ像」だの滝藤賢一演じる鈴愛の父役の楡野宇太郎を「顔のパーツが真ん中に寄ってる」だの、言いたい放題。逆に無駄にイケメン、イケメンと褒めたりもする。まあそりゃ役者だからな、みたいな。ルッキズムがウザいし、それ以外にも話に必要のないdisが多かった。容姿だけでなく、マンガ家、イラストレーター、引っ越し屋、監督、その他諸々、様々な職業への侮蔑に、白目民は怒りに震えた。

何より話が雑

「岐阜出身のヒロイン・鈴愛が漫画家になる大志を抱いてバブル期に上京するが、夢に破れ、シングルマザーとなって故郷に戻る」とNHKのサイトであらすじが紹介されてるが、「夢破れ」はまだしも、「シングルマザー」になるってわかっったら、結婚も素直に喜べないじゃん。。。それってどうよっていう。。。

そういうストーリー紹介のレベルからアレなんだけど、博多華丸大吉の華丸が『あさイチ』の朝ドラ受けで「ちょうだい、紆余曲折!もうちょっと!」と言ったくらい、経過がない。毎日観てても、「あれ、見逃した?」と思わせるのは凄い

伏線かと思わせぶりなエピソードがありながら、バンバン切り捨てて行く。そのわりには、見たこともないエピソードが出て来て、酷いときには、「え、こんな子供時代にこんな話あった?」と思ったら、直後にそのシーンを展開するという回もあった。

「人生・怒涛編」で「100円ショップ大納言」の店長が若い女性と浮気しているのだが、それについての具体的なエピソードがあるのかと思ったら、まったくなかった。『失楽園』が流行っていたので、そのあたりの雰囲気を出したいだけだったようだ。また、鈴愛が大納言のオーナー藤村光江から、「100円ショップの社長になってくれ」といわれるが、それも一瞬でスルー。その後、涼次が結婚資金として光江からまとまった金をもらったものの、勝手に映画の資金にするという事件が起きるが、その話もスルー。まったくモメない。100均のバイトの奥さんに、映画監督志望のフリーターの夫という貧乏夫妻なのに、金の話でモメないとかないだろ。

ストーリーの流れや、予算の都合でロケ地が多数使えないとかはわかる。朝ドラを見続けていれば、「こいつら、いつも同じ場所にいるなぁ」とか、街頭のシーンでも何故か毎度狭い丁字路(奥行きをあえてなくすために、画面奥に建物を置くので、丁字路になるのだろう)だったりするのはお約束だ。だが、そういった点も踏まえて脚本を展開していくのが、朝ドラ脚本家の職務だろうし、何より視聴者が観たいと思うような思わせぶりなセリフや設定があるのなら、それを観せるのが脚本家の役割ではないだろうか。そういうのを無視しまくったあげく、脚本家が見せたいものだけをぶちまけたのが、『半分、青い。』だった。

後半でも、月曜に仙吉爺ちゃん監修の元、五平餅の修行をしてたと思ったら、火曜日には爺ちゃんの味と並ぶ。しかも劇中では同じ日である。爺ちゃんが教えてる時には、ろくに手元も見ていなかったのにだ。もちろん、鈴愛がそれまで料理が特に上手だったかというと、そういうエピソードもない。
土曜日に律が不仲だった奥さんのより子と「やりなおしたい」と和解したのに、すぐ鈴愛と抱きしめあうシーンがあったかと思えば、月曜日には数年だって離婚している。視聴者としては「(ようやく律の家庭が落ち着いた)あの感動は何だったの?」となる。
朝ドラ自体、女性の一生を描くためどうしても年数が飛ぶのは否定しないが、ただでさえ展開が速く「季節感や時間感覚がわからなくなる」と評判だった『半分、青い』とはいえ、適当すぎるし、何より視聴者を置いてけぼりにするわ、バカにするわ、これはちょっとないんじゃないだろうか。

また、逆に普通なら感動するシーンでも、経過がないため、まったく感動できないことがあった。
娘の花野(かの)を出産して以来、まったく絵を描かなかった鈴愛が自分の連載作のキャラクターを描くシーンがある。普通に考えれば、非常に感動するシーンである。が、それまで鈴愛の連載マンガの内容がろくに紹介されなかったので、キャラを描いても視聴者としてはまったく感動しなかった。「そういえば鈴愛の描いてたマンガはそんなキャラだったっけ?」っていう程度にしか思えない。

ちなみに花野と共演シーンが一番多いのは律である。何故か後半、言い訳のように「花野はどこそこへ預けてきた」と鈴愛が言い訳をするシーンが多発する。なぜか律に預けている事が多いのだが、律もよう面倒みるわ。しかも恐ろしい事に、花野が律にケガをさせるのだが、その直後も律が預かっている。鈴愛、それは厚かましすぎるんじゃないか。

極めつけは、最後の二、三週間くらいで出て来た、修次郎と花野のいじめの話と、震災のエピソードだろう。ある人物が震災で亡くなるのだが、その人が一週間くらい前に唐突に出て来たかと思うと、久しぶりに再会した鈴愛の前でポエムを吐き始め、「鈴愛は生きる塊だから。君は私の命だ」とか言い出す(観てない人は「何言ってんの? 何かの比喩?」とか思うでしょうが、いやこれマジで)。仙台やら海の見える病院やら、あからさまに震災で被災する伏線というか、まあ、ご説明がなされるわけだが、いじめにしろ震災にしろ、扱いが軽すぎる。花野のいじめも「転校しよう」で終わる。いやまあ今時は不登校もOK、転校バッチコイだけど、もうちょっと花野によりそうことはできなかったのか。

シートベルトのないジェットコースター

いちおうフォローめいたことを言えば、展開の激しさ=ジェットコースター感に楽しさを見いだすこともできるかもしれないし、「名場面集」的に、シーン毎に観ればたしかに「感動するシーン」が多いのかもしれない。が、経過がまったくないため、感動に至らないのだ。むしろ「いやちゃんと経過を説明しろよ」と不愉快になることが多い。シートベルトのないジェットコースターに乗っているようなものである。
なにより「こういうシーンいいでしょ!」「こうすれば感動するでしょ!」みたいな脚本家の押しつけがましさにうんざりする。展開につぐ展開のために犠牲にしていることが多すぎるし、人物設定は魅力的なのに、全体的には活かせてない。美味い料理を出されたと思ったら、すぐ引っ込めて、全く別の味つけの料理を出されて、の繰り返しみたいなものだ。後味を楽しむ余韻もクソもない。というか味が混ざって、どんなに単品で美味い料理でも、食事全体として楽しめなくなる。

しかも鈴愛と律がくっつくために、劇中のあらゆる出来事が逆算的に必然性もなく利用されている感が強く、御都合主義が過ぎた。ゴールから逆算してイベントを用意していくのはシナリオ作りの常道だろうが、鈴愛と律が生まれた病院のキミカ先生の還暦パーティーも、律の母親が死ぬのも、鈴愛と律をくっつけるために用意したイベントだろ、というのが視聴者に見え見えなのだ。必然性が感じられない。物語としての自然さがない。ポエムまき散らさねぇで、ちゃんと話を練ってくれ。

視聴者として大変キツかったが、それ以上に役者やスタッフもキツかったのではないだろうか。観るも地獄、作るも地獄、鬼のような朝ドラである。

ドラマとして邪道な「アンチ・朝ドラ」

鈴愛に朝ドラのヒロインらしい清廉さや応援したくなる魅力は、僕からすると皆無だった。白目タグでもたびたび具体的な病名付きで批判されていたが、病名こそここでは挙げないものの、あまりに他人を顧みない厚かましさや幼稚さは病的にさえ感じた。最後の二週間くらいはさすがに少し大人っぽくなったが、それまでは突発的な行動が多すぎ、また他人に対してむやみに攻撃的で常識を疑うような言動が多かった。

脚本家は朝ドラとして革新的だのなんだのと触れ回っていたようだ。普通に「つまらない」と切り捨てられる作品ではなく、悪い意味で「え、どうなるの?」と先が気になる吸引力は間違いなくあったが、それはシナリオとして邪道だというと、言い過ぎだろうか。イヤミス的な吸引力とはまた違うし、しかもたぶん脚本家も意図していない所で反感を買っていて、そういう点でも盛り上がってしまった「奇跡の作品」ではあるかと思う。「革新的」というと褒め言葉になるが、悪い意味で「アンチ・朝ドラ」だったとは言えるだろう。成長しない女性の半生である。

番外編:脚本家のツイートやモデルについて

脚本家のツイートも話題だが、個人的にはあまり気にしていない。「神回予告」とか、バカだなぁと思う程度。論評に値しないといっていい。あさイチの華丸との対談でも、律のプロポーズについて言い訳がましく「律はプロポーズするつもりだった」と言っていたが、華丸は「そんなの鈴愛もわからんわ!」と視聴者の意見を見事ぶつけてくれた。脚本家には「当然の流れ」とわかっていても、視聴者には「え、そうなの!?」となることばかりだったし、それをTwitterで補完するというのは、プロとしてあまりにも恥ずかしくないだろうか。行間を読むどころの話ではない。

『真田丸』では、時代考証をした丸島和洋氏がTwitterで解説を行い、それが真田丸人気の一翼を担ったのもあるが、『半分、青い。』に関しては、炎上マーケティングとして大変優れたTwitter運営だったのは間違いない。

それよりも、公私混同っぷりはまあクソだと思う。

このツイートだけでなく、ぶらさがってるレスもぜひ見てください。ここまでやるかと、ビビるから。

自伝的作品だそうなので、まあある程度、脚本家自身を反映させるのはわかる。
が、劇中、鈴愛が感動する詩があるんだけど、それも脚本家が昔発表した詩だとか、主人公の娘の出産予定日を自分の誕生日にするとか、なんかもう自己愛がすぎてついていけません。
この後も、謎の「ブロードビーン」なる写真家の作品がまったく必然性なくチラチラ出てくるんだけど、これが脚本家の娘の写真だという。

まとめ

一言で言うとこんなかんじ。

「ババァ」なんて汚い言葉は嫌いだし使いたくないのだが、使わざるを得ない。それほど不愉快だったとご了承頂きたい。
強いていえば、マンガであれば、まだ面白く読めたかもしれない。そんな感じの演出・ストーリー展開なのだ。ドラマとしてやるには、リアリティがない。脚本家は「恋愛ドラマの神様」といわれたそうだが、#半分ホラーというタグも盛り上がったことだし、イヤミス的なサスペンスを書けばもしかしたらウケるのかもしれない。とはいえ、強引な展開に他人に対して攻撃的なわりには自己愛に満ちたデリカシーのない話は、今の時代に合わないだろう。

『まれ』や『とと姉ちゃん』の時もブーブーとツイートしていたのだが、やはりこうやってまとめておいた方が後で比較できるしいいだろうと、ブログに書いた。次の『まんぷく』ではせめて不快感の少ない話であって欲しいし、このエントリを見直す必要がある朝ドラが出てこないことを切に祈る。

最後になるが、半分白目タグの方々には感謝の言葉を申し上げる。モヤモヤが共有できたばかりではなく、なるほどと思わせる解釈や、脚本家のことなど、様々な発見があった。このタグがなければ吐き出す先がなく、イライラしっぱなしだっただろう。

あ、『半分、青い。』を我慢して見続けて一番よかったのは、他のドラマやアニメを観ても、不愉快にならないだけで感動するし、話にムリがないのでめっさ面白く感ることです!! ありがとう、『半分、青い。』!!!!

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「#半分白目」になってまで『半分、青い。』を見続けた感想。」に1件のコメントがあります

  1. はじめまして!夢中になって最後まで読ませていただきました。わたし達の言いたいことを全て考察し、解説していただいた感じです!勝手ながらわたし自身のことについて話させていただくと、当初は白目タグに対して、「何でも批判したがるやつがいるんだなぁー」くらいでしたしかし観ていけばいくほど内容の酷さに白目民さんの意見に共感するようになりました(残念ながら一度もツイートしたことはありませんが)そして最後には15分がえらく長く感じ拒否反応からか内容が入ってこなくなりました笑笑。最終回終えてもなんだかモヤモヤが残っていたところこの記事が目に留まり読ませていただき、とってもスッキリしました!ありがとうございました。
    長々と失礼いたしました。

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