君の愚痴が聴きたい

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ずっと書きたかったことなんだけど。

語弊があるかもしれないが、TwitterやFacebookで誰かの愚痴や弱音を見ると、安心する時がある。
仕事だったり子育てだったり、いろいろあるわけだが、もちろんそれで相手を見下したりマウンティングをとっているわけではない。ただ、問題点は異なっていても、「悩んでいるのは僕だけではない」という事実は、ささやかな希望にも似た何かをくれる。
弱いところを曝け出すというのは、ある意味勇気がいるし、匿名で直接利害関係がなかったり、クローズドな空間であったりするからこそ可能な利点だと思っている。

難病の人がSNSやブログで繋がったり、リアルでも患者会のセミナーで語り合うことで、「私と同じ悩みの人がいるんだ」と救いを得たという話はよく聞く。文字通り「同病相憐れむ」という状態だが、別にまったく関係のないことでも、「苦しんでいるのは自分だけではないんだ」と気付かされるのは、それだけでも自分の苦しみが多少報われるような思いになる。

いざ相談事に乗ってくれるといわれても、たとえ酒が入っていようとなかなか面と向かって言えないこともある。Twitterなんかはその辺、いつでも前後の脈絡さえなくても適当につぶやけるので、本当に楽だ。それでふぁぼやレスを頂けるのは、本当に励まされている。いつもありがとう。

個人的には特に今年に入ってからかなり鬱なツイートが多くなっていて、フォロワーの方々からご心配頂いているのは申し訳ないとは思いつつも、やはり何処かしら吐き出す場所が欲しいのが正直な所だ。

つまらない、ありふれた悩みではある。でも、「普通なら耐えられる=そんなものは悩みでさえない」となると、この苦しみは何なのか。ツイートすることで、その辛さが現実にあるんだ、辛いと思っている自分が存在しているのを証明できる、そんなギリギリの思いがある。自分の心にしまっておくだけでは、その辛さが本当に存在しているのかわからなくなるような、どうしようもない不安定さ。

悲鳴の上げ方が、いや悲鳴以前の、相談の仕方がわからないのかもしれない。面と向かって相談するには、弱音を見せたくないとプライドが高すぎるのかもしれない。だが、せめてツイートすることで、極論、明日事故で死んでも、僕が悩んでいたという事実は残ってくれる。自分自身の問題で、自分にしかその問題を解決できないから、ツイートしたところで愚痴を垂れ流しているだけで不快な方には申し訳ないのだが、その悩みさえ存在しなかったことになるのが、怖い。生きるのはしんどいものの、別に事故る予定も死ぬ予定もないだが。悩んでいたという事実さえ誰にも気付かれずに消えてしまうのが、怖い。

啄木に
 死ぬことを
 持薬をのむがごとくにも我はおもへり
 心いためば
という歌がある。希死念慮でさえ、つまりいつか死ねるということが逆説的に生きる希望となる。啄木は妻子があるのに借金をして遊郭で遊ぶようなクズだが、それでも短歌という形でその堕落ぶりを文学に昇華した。Twitterの愚痴が文学だというつもりも、自分のツイートが誰かの励ましになっているというつもりもまったくないが、愚痴や嘆きといった一見ネガティブなものでさえ、共有することで誰かのわずかながらの救いになるのではないか。
少なくとも僕はそういった思いで、あなたの愚痴に、弱音にふぁぼを押している。
「がんばってね」とか「わかるわ」という言葉は適切ではないだろう。ただ、「あなたの辛さを僕も受け止めました」という印として。

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