宮崎駿が初めてキスシーンを描くとか夫婦の愛情がどうのこうのだとか、「地味で子どもが途中で飽きて遊びだした」とかいう前評判を聴いて、「おおかみこども」みたいな話だったらどうしようと少々不安になりつつも、『風立ちぬ』、観てきた。
いやー、もー素晴らしい。
たしかに地味だ。ぶっちゃけストーリーはたいしたこたぁない。
話の筋やラストのセリフに触れるので「ネタバレあり」としたが、ネタバレしてもまったく感動を損ねない。そもそも「ネタ」って程の話の起伏はないし。
話はシンプルだが、素晴らしい。静かに熱い。
見終わった後、言いようのない贅沢な爽快感を味わった。
関東大震災と世界大戦を時代背景にした映画で、ゼロ戦の設計をした堀越二郎をモデルにしており、また作品外でもジブリの配布している小冊子『熱風』2013年7月号での宮崎駿監督の憲法観・戦争観で物議を醸したが、断言しよう、政治や思想、戦争なんぞまったく関係ない。そんな下等なものでこの作品を語るのは愚の骨頂だ。この話は、一流のセンスを持った設計士が、己の美意識を発揮するために静かな情熱を絶やさずに邁進していく物語なのだ。
パンフレットで立花隆が「これは、明治以来西洋に追いつき追い越せで、急ごしらえに作った富国強兵国家日本が、富国にも強兵にも失敗し、大破綻をきたした物語だ」と題した一文を寄せているが、的外れもいいところだ(文中、いいセリフをピックアップしてるので、引用には便利だが)。
パンフレット冒頭の企画書にも「私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってすき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったとかばう心算もない。」とある。
事実、戦争の描写は最低限である。悲惨さを訴えるものではなく、淡々としている。たしかにカストルプが反戦的なセリフを言ったり、二郎が特高に追われたりというエピソードもあるが、ただの時代描写でしかない。敢えて言うならば、戦争描写を最小限に抑え、あくまで個人の生き様を描くことに徹することがこそが、「反戦的」といえるかもしれない。
しかし、国なんぞより個人の方が大事なのだ。企画書末尾には会議のシーンについて触れられているが、「描かねばならないのは個人である」とあるように、会議や国といった組織の論理はただの背景でしかない。
堀越二郎が、菜穂子が、そして私たちが、いつ、どんな時代に産まれようと、「どう」生きるか。生き抜くか。
里見菜穂子役の瀧本美織が『宮崎監督からは、「昔の人は生き方が潔い。必死に行きようともがく感じではなく、与えられた時間を精いっぱい生きている。そんなイメージで演じて欲しい」アドバイス頂』いたと言っているが、それなのだ。
その生き様は「駆け抜ける」ものではない。映画のストーリーもスピード感はない。マイペースなのだ。しかし、見終えた後に走りきった爽快感がある。
劇中で本庄から「日本は十年も二十年も遅れてる」とバカにされる、牛で出来上がった飛行機を運ぶシーンが何度かあるが、非常に象徴的だ。先進国から見れば時代遅れだろうが、ジェラルミン製でないひ弱な飛行機という夢を、ゆっくりとだが確実に運ぶ。かといって、夢を叶えるための努力や、夢を叶えるって素晴らしい!ということを謳った映画でもない。
ポスターにもなっている菜穂子が凛々しくキャンバスに立ち向かうシーンがあるが、絵はろくに見られないし(ちらっと絵が映ったかもしれないが、失念)、あくまで二郎との再会のための道具で、なぜ菜穂子が絵を描くのかといった絵自体に関するエピソードはない。少々不満な所でもあったが、これは絵=夢を描くことは大事だが、何をモチーフにしているとか出来不出来は関係ないのだ、ということかもしれない。
何より最後のシーンで「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」とカプローニから尋ねられ、「はい、終わりはズタズタでした」と二郎が応える。二郎はカプローニからも賞賛される、美しい飛行機を造るという夢を叶えたが、戦争には負けた。無論二郎の夢は「素晴らしい飛行機を作って戦争に勝つ」ことではない。「美しい飛行機を作りたい」その一点だ。
たまたま二郎が産まれた時代には、飛行機は戦争に使う以外ないから、結果として戦闘機を作っていただけで、どんな時代に産まれようと二郎は飛行機を作っただろう。いや、もしかしたら飛行機である必要はないのかもしれない。自分の持って生まれたセンスを、美意識を発揮できれば、一流の設計士として二郎は活躍しただろう。
「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美にく代償は少なくない。二郎はズタズタにひきさから、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである」と宮崎駿が書いているように、自らの美意識に殉ずる人々を描いたといってもいいだろう。
そういった美意識は本庄の「俺たちは武器商人じゃない、美しい飛行機を作りたいだけなんだ」というセリフにも表れている。物語は夢と現実が交錯しながら進むが、美意識と浪漫、矜恃に溢れたセリフが非常に魅力的である。
「創造的人生の持ち時間は10年。君の10年を力を尽くして生きなさい」とカプローニは告げる。結果として夢は叶うが、そこは終着点ではない。夢は、実は目的ではない。「力を尽くすこと」ことが目的で、夢はそのための手段なのだ。もちろん、二郎がゼロ戦という美しい飛行機を作り上げたことにも感動を覚えるが、菜穂子は夢を叶えきったわけではない。結婚はする(=夢は叶える)ものの、結核のため病み衰える前に、「美しい姿のまま」で記憶にとどめてもらえるよう、二郎の元を去る。夢は破れているのだ。
しかしそこには、菜穂子の生き様がある。限られた時間を、真摯に、誠実に生き抜いている。結婚後、布団に伏せながらも二郎と暮らす菜穂子が「一日一日を大事に生きてるの」というようなことを言うシーンがあるが、まさにそこなのだ。
命を削るような努力をするわけでもなく、終始全力疾走というわけでもない。牛歩たれども一歩一歩、等身大の努力を、当たり前のことを当たり前にする。ただそれだけなのだ。
どんな時代だろうと、どんな病苦に冒されようと、自らの人生を覚悟を持って生き抜く。それがキャッチコピーの「生きねば」なのだ。
劇中での関東大震災や、戦争という時代描写に、3.11を経て改憲議論も喧しい現代を重ねなくもない。てっきり3.11以後に作った話で、震災後の日本への応援歌と思ったら、原作の漫画は09年4月から10年1月まで[モデルグラフィックス』で連載されたマンガだという。しかし二郎と菜穂子が出会う関東大震災のシーンを描いた翌日に東日本大震災が起きたり、現代を描こうとしなくても描いてしまっている。またテーマソングである40年前に作られた荒井由実の『ひこうき雲』が、まるでこの映画のため、菜穂子のために作られたかのように見事にマッチしている。逆に『ひこうき雲』を元に作ったと言われてもまったく違和感がない。そういったシンクロニシティも興味深い。
中高生が見ても誇りを持てる仕事への憬れを強く持つだろうし、製造業でなくてもwebデザイナー、プログラマーだろうとはモノ作りに関わる人は必見だ。いや仕事してれば必見。してなくても必見。仕事への矜恃を考えさせられる。いや、それ以上に一日一日を大切に、頑張って生きねば!と思える。
僕はジブリの中ではダンディズム溢れる『紅の豚』が一番好きだった(本作でもちらっとポルコめいた人物が飛行機を操縦している)。『風立ちぬ』は今までのジブリとは毛色の違った作品ではあるが、本作が最高傑作だ。
「風立ちぬ」はどんな時代でも、どんな国でも変わらない普遍的な「生きぬく力」の素晴らしさを描いててる。今を生きてる一人でも多くの人に見て欲しい映画だ。
こびさん、どうもです。
http://kazetachinu.jp/prono.html
だそうです。プロペラ音は、正直ちょっとアレでした。人の顔が見えてしまうというか、声と音は違うな、と。蒸気機関車はそこまで違和感はありませんでした。
地震のシーンは、最初の地面が波のように激しくうねる所で、夢なのか何なのか途惑って音よりもそちらに気をとられてました。
他で書くつもりがないので、ここに吐き出させて。
効果音、特に地震のシーンと飛行機のエンジンの音が、ほとんど
人間によるものだと思ったのだけど、たぶん間違いなくて。
地震のシーンのはとくに、地鳴りや何かよくわからない前兆音が
なまなましくて怖かった。