震災後、いつか行かなくてはと思っていた福島へ、8月30、31日にようやく行ってきた。若冲が来てくれました―プライスコレクション 江戸絵画の美と生命―が福島美術館でやっていたので、それを観るのと、被災地の様子を見たかったのだ。 プライスコレクション自体は2006年(もうそんな前になるのか・・・!)の東京国立博物館で開催された「若冲と江戸絵画」展で観ていて、ダブりは覚悟して行ったが、珍しいタイプの作品が多く、大変面白かった。9月23日までやっているので、ご興味のある方はぜひ。「鳥獣花木図屏風」は一度生で観た方が良い大傑作。
さて。
何故福島に行きたかったか。
震災当時、NHKのUstreamを観ていたが、家や車が玩具のように津波に流されていく地獄絵図めいた映像に、情報を収集するのをやめた。原発についてもろくに理解しようとせず、「本当にヤバかったら、さすがに緊急避難命令なりなんなり出るだろう」と、スルーしていた。一言で言ってしまえば目を背けていた。東京でも余震が酷かったし、ちょうど三月末までに納品しないといけない代理店案件が修羅場ってて、しかも代理店が関西だから、こちらの様子が見事にわからないというわりとよろしくない状況だった。幸運なことに計画停電の対象地域からは外れていたけど、独立以来5本の指には入るしんどい時期だった。
震災がある程度落ちついてからも、たまにメシ屋で観るテレビやネットのニュースで得る情報から、津波に飲まれつつも生き抜いた人がいるのを知った。だが、あまりに壮絶で、悲惨過ぎて積極的に情報を得ようとは思えなかった。
ビートたけしが「1人が死んだ事件が2万件あった」というようなことを言ったそうだが、とてもじゃないけど、それぞれの悲劇を受け止めきれない。僕は小説が好きだが、フィクションでは越えられない生身の悲劇がそこにあって、かつそれを「テレビの向こう側のコンテンツ」として消費してはいけないと感じてていた。
ただ、福島には行かないとと思っていた。主語が大きくなるが、今、日本に生きているなら、行っておくべきだと思っていた。
たとえその日から時間が経っていても、抗いようのない大惨事の傷跡をこの双眸で直視すべきだと。
福島の友人が車を出してくれるというので、案内してもらった。
松川浦で車を降りて撮影を始めたが、だだっ広さが怖かった。若冲展のあった福島美術館も、入り口までがだたっぴろく、高所恐怖症の気持ちが少しわかる気がしたのだが、それとはまた違った。道路の両脇にひたすら田んぼが広がる道を通ってきたが、整った緑が気持ちの良い田んぼの海とも違って、その荒野は紛れもない傷跡だった。松川浦は初めて訪れたが、不在、「あったはずのものがない」という恐ろしさ。
蝉の音と、トラックやショベルカーが唸る重低音のミスマッチ。
わずかに残る家の基礎。遮るものがなく通り過ぎる風の残酷さ。
言葉に詰まる光景が多かったが、朽ち果てた海水浴場で犬の散歩をする人がいたり、花火のゴミが問題になっていたりと、日常がたしかにそこにあった。海水浴場などは優先順位的にどうしても低くなるようで、そのため放置されているそうだ(それでも大きな瓦礫などは処分されているが)。
案内してくれた友人が、さらに相馬付近に住んでいる友人を呼んでくれた。彼から震災の話をいろいろ伺った。
特に印象に残ったのは、マスコミの姿勢だった。震災後、近くの小学校に非難していた彼の元に、テレビ局が取材に来た。インタビューされた彼は「だいしょうぶっすよ」と言ってたら、カメラを止めて「そういうことじゃないんです」といわれたとか。
一方で泣きながら話した女の子は、長々放送された。彼らが求めているのは、わかりやすい「悲劇」だった。
当時からも記者会見での高圧的なマスコミの態度や、被災地での横暴な態度はよく聞いていたが、実際にその被害にあった人から聞くとどうにもやるせなくなった。
幸運なことに、僕が知っている人で亡くなった人はいなかった。だから、震災も敢えて突き放した言い方をすれば、「どこかの誰かの悲劇」だった。しかしそれを現代日本に生きる一日本人として、きちんと自分の一部にしたかった。、感動を押しつけるマスコミをはねのけて、お涙頂戴のドラマとしてではなく、自分の人生の一部として、土地を訪れるという体験を通じて、被災地の痛みを共有したかった。
「自分にできることをしよう」というのがあの頃合い言葉になった。募金をすればいいのか、ボランティアをすればいいのか、「食べて応援」をすればいいのか。僕なりの答えは、「その場に行ってこの目で見て、地元の人の話をこの耳で聞く」だった。彼らの悲劇を、マスコミを通じてではなく、本人の口から聞いて、共有する。マスコミという第三者が伝えたものではなく、直接、彼らひとりひとりの現実を受け止める。
同じ福島の人でも当然様々な立場、様々な意見の人がいる。
新しい日常を歩み始めた人がいれば、過去を整理しきれない人もいる。
矛盾を抱えざるを得ない人もいるだろう。
僕は、本人から話を聞いて、彼の考えを、日常を知り、思いを共有したい。
「今」を撮って、伝えたい。
伝える際、当然それは僕が恣意的に選び取った情報となってしまう。
何より撮影という行為は、震災を「悲劇のコンテンツ」として消費するマスコミの姿勢と被るのかもしれない。
「被災地へ行けば、いい絵が撮れる」と思ったのは間違いない。
ただ、シンプルに、それ以上でもそれ以下でもなく、その場へ行きたいという気持ちがあった。
何を得られるかわからない。
この目で見て、この耳で聴き、この足でその場に立つ。そして文章と写真で「今」を伝えたい。
自己満足と言われればおとなしく首肯しよう。何が伝わるのか、どう思われるかはわからない。ただ、「今」を伝えることに価値があると強く思った。
案内してくれた彼に「震災で一番の被害って何?」と聞いたら、風評被害だと言われた。
地震と津波だけなら、やり直しのチャンスとポジティブに捉えることもできる。
しかし原発による風評被害が、それを邪魔する。
彼らは日常を取り戻す戦いをしている。マスコミの描いたのシナリオを演じる「悲劇の主人公」ではなく、一人の人間として、新しい日常を構築する戦いをしている。しかし彼らがいくら奮闘しようと、「原発」というどうしようもない問題の渦中に、強制的に放り込まれてしまう。
福島第一原発は、福島の人らが使う電気ではなく、東京電力の、つまり都民である僕が使う電気を作っていた。
原発事故に関しては、東電の管轄内の僕らは福島の人らを応援する前に、まず謝らなければならない。僕らの為に作られた原発のせいで、こんな被害に遭わせてしまって申し訳ない、と。僕らは純粋な被害者ではない、間接的な加害者でもあるのだ。
原発に関する議論は、原発の一利用者であったなら、まずその原罪を見つめることから始めるべきだ。その自覚の上で、東電や政府の責任を追及し、これからの電力問題を検討すべきだろう。
震災を過去のものとせず、現状を伝え、共有する。
遅々として進まない現状を、きちんと認識する。
知ったところでどうなるわけではない。募金する金額を多少増やしたところで、ススメの涙だろう。
地震・津波の被害と原発の被害は、また別フェーズの問題ではある。
ただ、何にせよ今を知ることに価値があると、信じている。
こうして書いていてもまだ整理がつかないし、たぶん整理がつくことはしばらくないだろう。
東北と比べたらなんてことはないが、東京は東京で充分な「被災地」だと思う。たしかに自宅兼事務所の僕は幸運なことに帰宅難民になることもなく、計画停電にも遭わなかった。
だが、たしかにあの日、あの長い揺れの中で死を覚悟した。
福島の人には福島の人の、都民には都民の、僕には僕の、それぞれの3.11がある。
福島第一原発の真の収束まで、僕らはそれを考え続ける必要があるだろう。