「信頼関係」という名の欺瞞の押しつけ、あるいは「指導」に名を借りたサディズムの発露

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今回はwebとは全然関係ない話です。
先日お客さんの新年会にお邪魔した際に、昨今の体罰に因んだ面白い話を聞いたので書いてみます。

古き良き時代の名物教師

その方――Aさんとしましょう――は会社を経営していて、還暦過ぎてリタイアされた方です。
Aさんのお父さんはパチンコ屋で、当時は役所に書類やらなんやら出す前に、やくざに話通して所場代払ったり、クギ師の手配をしたりと(当時は当然今の機械のパチンコじゃないですからね)、今とは違った苦労があったそうで。
Aさんは学校サボって山へ釣りに行ったり、酒だのタバコだのを飲んでたりと、やんちゃな少年時代を過ごされたそうです。
親がパチンコ屋というのは当然教師も知っていたので、「A、今度親父に出る台きいてきてよ」と、言われることがあったそうです。そこでAさんは「じゃあ先生、今度のテストは教科書の何ページがでますか?」とうまいこと交渉をしてたそうで、なんとも小賢しいというか、頭の切れる少年だったんですねw

そんなこんなで先生ともうまくやっていて、多少は体罰とかもあったそうですが、「タバコとか酒飲んでもいいけど、俺の目の届く範囲でやれ!」ということで、先生のご自宅に泊まって好き勝手やってたそうで、まあなんとも「古き良き時代」って奴ですね。
ただ、「おおらかな時代」と「大バカな時代」は一文字違いですね(ΦωΦ)

また別の女性Bさん(彼女も60過ぎの方です)は、「太ももやお尻を叩かれることはあったけど、顔を平手で殴るなんてなかった」と仰ってました。

議論するような場ではないで、さすがにつっこんで訊けませんでしたが、大阪の事件については、僕にはAさんは「教師の愛を受け取れていない」と生徒側を責めているように、Bさんは「多少の体罰はいいけど、限度をわきまえていない」教師側を責めているように聞こえました。
ただ、お二人とも口を揃えて言っていたのが、「昔は名物先生がいて、教師との信頼関係があった」ということです。

でも、「信頼関係」って、何でしょう?

熱血先生の「信頼」

僕も中学時代にはバレー部にいて、「熱血教師」が顧問だったので、平手打ちに靴に灰皿に机にと、アレやコレやが飛ぶ現場にいました。僕はレギュラーではなかったので、そこまで被害を受けなかったものの、レギュラーはバシバシしごかれてました。手が出るわりには道徳的な事はきっちり教えてましたし、夜遅くまで練習したら、車で部員を送っていったりしてましたしね。親からも評判よかった覚えがあります。

当時まだ40手前だと思いますが、「お天道様に見られて恥ずかしいことをするんじゃない。……俺がいつも見てると思え!」と古風なことを言いつつも、少なからず怖がられていることを自覚しながらのユーモアを織り交ぜたり、書道の先生で字がうまかったので、校長の代わりに賞状に生徒の名前を書いてたりしたのですが、「この年になっても、誉められると嬉しい」と無邪気に喜んでいたり、手さえ出なければもっといい先生だったんだと思います。僕もそういう面は非常に影響を受けたし、尊敬していました。

とはいえ、まったく恨まれていなかったかというとそういうわけではなく、一部のレギュラーからは疎まれてましたし、数年前には「卒業式の後に複数の生徒からボコられた」なんて噂も聞いたこともあります。

加害者と被害者が供託する「体育会系部活動症候群」

当然のことながら、学校や親からの「体罰」は基本的にすべきではないと思っています。
体罰反対論者がよくいう「口ではなく手が出るのは、教える側の指導能力の限界」というのは非常に良く分かります。
「教育」はコミュニケーションの一種で、暴力もコミュニケーション手段のひとつではありますが、自分の不快を伝え、相手を否定する以上の効果は暴力にはありません。そもそもまっとうなコミュニケーションを取るのに、暴力は不要です。

「暴力を奮う生徒を諫めるために殴るのはアリだ」とかよくいいますが、教師が奮う暴力の中で、実際そういう状況で殴っている先生がどんだけいるんでしょうね、と欺瞞を感じます。少なくとも僕の経験では、教師はしょーもないことで殴ってきますw まあ僕がしょーもないことしてるから、ってのもあるんでしょうがw

前述のバレー部ですが、僕らの世代は顧問の熱血指導にも関わらずく、残念ながら県大会には行けなかったのですが(あんま覚えてないけど)、今回の大阪の事件のようなことは、強豪校ならどこでもあるんじゃないでしょうか。

信頼関係としてのSM

話がちょっと飛びますが、SMって一見サドがご主人様で上、マゾが奴隷で下だけど、実はマゾが喜ぶようなことをしなくてはいけないから、大変なのはサドの方だ、という話をたまに聞きます。奴隷が喜ぶことをしないと、ご主人様ではいられないわけです。
言われてみればその通りで、まったく見当違いなことをしていたら、関係性が成り立ちません。

ただしSMと違って純粋なサディズムですと、ただの攻撃性の発露ですから、相手が喜ぶとか関係ないんですね(性的なものかどうかは置いといて)。
そこにコミュニケーションとか、信頼関係とかないんです。一方的な暴力。「組織のため」とか「教育だ」とか大義名分はご立派ですが、ただのストレス解消、暴力衝動の発露。ハッキリ言えば、「指導」に名を借りたただのサディズムです。

ここで大阪の事件に於ける「信頼関係」を省みるに、

学校が実施したバスケ部の生徒と保護者へのアンケートの回答に「試合を早くしたい」「顧問の指導を受けたい」などの言葉が並んでいた』
毎日新聞

というのは、

犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由を聞くとそれに同情したりして、人質が犯人に信頼や愛情を感じるようになる。

という、ストックホルム症候群ならぬ、「体育会系的部活動症候群」とでもいうべき状況に見えます。

先生と生徒が閉鎖空間=部活内で、長時間非日常的体験=暴力をふるわれる状況を共有したことで、先生側に同情しているわけです。そこにある種の「信頼関係」はあるのでしょう。しかし、少なくとも自殺した生徒相手には、「信頼」に名を借りた一方的な暴力になっています。

僕には理解できないのですが、どうも体育会系におけるこの「信頼関係」とは、「指導のためであれば・『愛』があれば、暴力が許される」というもので、生徒側も暴力をふるわれる覚悟をしているということが前提になっているようです。
教育空間である学校で、堂々と暴力が許される場所がある。不思議な価値観です(笑)。

何より卑劣なのは、自殺した生徒を主に攻撃していたようで、これって集団内にスケープゴートを設けることで集団の意思統一を図る手法なんですよね。
そもそもフロイト先生は性衝動や暴力衝動を芸術やスポーツで発散させることを「昇華」といいましたが、顧問自体が昇華できてないわけですw

前述の通り、僕自身、たしかに体育会系の部活なら、どこでも暴力が奮われていると思っています。しかし、言うまでもなく、暴力をふるわれる覚悟なんてしていません。交通事故があるというのと、自分がその被害に遭うと思っているのは、また別な話なのと同じです。

己の内なる暴力衝動の自覚

ただ、この先生はたしかにかなり度を超えていますが、僕らがそういった暴力衝動を抑えきれるのかというと、そうではないと思うのです。
たとえば僕はまだ独身ですが、子どもが欲しい派なので、将来子育てをしていて、手がでないかというと、出さないとは思えません。絶対に子どもに手を出さない、とはいい切れないのです。

大事なのは、己の内なる暴力衝動の自覚だと思うのです。
自覚なきところに、反省も対策もうまれません。それを「暴力」だと思わなければ、「指導」という名の体罰を繰り返すだけでしょう。
僕らに必要なのは、「信頼関係」の名の下に「暴力をふるわれる覚悟」ではなく、「暴力を奮ってしまう」可能性があるという自覚であり、またそれを見過ごす怠慢な傍観者となってしまう覚悟ではないでしょうか。

権力を持った時には、横暴にならず、権力を奮われる側になったときは、「自分も被害にあったのだから他の人間・下の世代も被害にに遭うべきだ」という負の連鎖を断ち切る。
会社で言えば、「仕事が残ってなくても残業すべき」的なアレですね。他人の時間を奪う理不尽な暴力ですし、残業代が出るにしても、本来的には会社の利益を不当に奪う損害行為です。

他人を支配するのには、暴力が一番手っ取り早いです。金で支配する方法もありますが、当然ながらそれなりの元手が必要ですw
何より「支配」と「指導」は違います。たしかに暴力による支配でも教育と同等の結果は出るかもしれませんが(現に強豪校な訳で)、教育ができない人は支配者ではあっても、指導者ではありません。
「名選手必ずしも名将ならず」というのはまさにそれで、いくら自分自身がいい選手であろうと、それを言語化して指導できなければ、指導者としては適正があるとは言えません。

訊く勇気はないのですが、中学の時の顧問に、今回の事件について見解を伺ってみたいものです。
Aさんのように「思い出話」として純化され、「信頼関係」だの「昔はよかった」だのと美麗字句を並べて話をはぐらかされるのか、それとも真摯に向き合ってくれるのか。
今でも尊敬できる先生であって欲しいというのは、僕のわがままでしょうか。

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